【かとう唯・インタビュー】ミュージカル女優として、自身の歩みを投影したMVについて語る!

かとう唯

女性アイドルユニット・平成琴姫のメンバーとして芸能活動を始めてから、今年で10周年を迎えた女優・かとう唯(かとう・ゆい)。先日も、ミュージカル「サイト」で主役を担ったように、今はミュージカル女優として活動している。同時に、アイドル活動時代から冴えていただじゃれのセンスが評価を受け、「だじゃれアンバサダー」としても活動中だ。

かとう唯

ミュージカル女優/ダジャレント(だじゃれのタレント)、2つの顔を持っているかとう唯が、その魅力を、エンターテイメントな要素を色濃く映し出した形で伝えようと、クラウドファンディングを通して制作費を募り、2本のMVを制作した。
かとう唯のだじゃれセンスを存分に発揮。69個のだじゃれ映像を詰め込んだ「ダジャロック!」のMVを、9月に公開。冒頭でかとう唯が「聞いておどロックなよ」と語りだし始まったように、69個のギャグシーンが次々と流れてくる。中に登場する69人の出演者もみずからオファーし、かとう唯を支持する仲間たちと一緒に作り上げた作品に仕上がっている。

そしてもう一本が、公開になったばかりの「東京プリンセスストーリー」のMVだ。以前活動していたアイドルグループ(平成琴姫)時代にグループの顔となる楽曲を数多く制作してきた作曲/編曲/プロデューサーの樫原伸彦に、かとう唯みずから楽曲制作を依頼。「ミュージカル女優、かとう唯らしさが伝わる楽曲」として作りあげたのが、ドラマチックな展開を見せてゆくミュージカル調の「東京プリンセスストーリー」だった。作詞を、かとう唯みずから担当。何度心折れる経験を重ねようと、叶うと本気で信じていれば、いつか夢は叶う。憧れのプリンセスになれる。そう強く信じて努力し続ける姿が、歌詞には記されている。

かとう唯

MVの映像には、ミュージカルのヒロインをつかもうと挑戦してゆく一人の女性の姿を投影。何度も落選し続けてきた中、ようやくつかんだ舞台出演のチャンス。でも、手にしたのは主役ではなかった。そんな彼女に、とあるアクシデントによるヒロイン役がめぐってきた。そこからさらに努力を重ね、舞台の主役になるプリンセスとして輝くまでの姿を、ドキュメント風の物語として描き出している。中でも見どころは、ミュージカル映画のように歌いなから物語を進めてゆく作りになっていることである。

▼「東京プリンセスストーリー」MV

「東京プリンセスストーリー」MV
ディレクター:久道成光出演
かとう唯
彩花まり(元宝塚歌劇団)
須藤香菜(カラオケ100点女優)
白鳥光夏
柏谷翔子
澄人
大塚庸介(振付師)
樫原伸彦(作曲家)楽曲
作詞:かとう唯
作曲:樫原伸彦
編曲:難波 研


「東京プリンセスストーリー」の楽曲とMVの魅力について、かとう唯にインタビューを敢行。
以下のように言葉を届けてくれた。

【かとう唯・インタビュー】

かとう唯

――今年の唯さんの活動を語るうえで欠かせないのが、主演をつとめたミュージカル「サイト」…もそうですが、やはり、クラウドファンディングを通した一連の動きかなとも思っています。その内容が、唯さんが得意とするだじゃれを69連発する人気ナンバー「ダジャロック!」のMV制作。そして、平成琴姫時代からずっと支えてきた作曲/編曲家/プロデューサーの樫原伸彦氏への楽曲発注という目的を叶えるため。そこで生まれたのが、現在、配信リリース中のシングル「東京プリンセスストーリー」になります。さらに「東京プリンセスストーリー」のMVも制作し、ついに公開にもなりました。今回の一連の動きの中、「ダジャロック!」と「東京プリンセスストーリー」のMVは唯さんの活動を知らしめる最高の武器になったなと感じています。まずは、なぜ、「ダジャロック!」のMVを制作したのかと、樫原さんに楽曲提供をお願いしたのか、そこから教えてください。

かとう唯:樫原さんとは、アイドル活動をしていた平成琴姫時代から楽曲提供をしていただいていた関係でした。平成琴姫は、「乙女革命」など樫原さんの楽曲を歌うようになってからグンと支持を集めだし、樫原さんの楽曲が平成琴姫の未来を切り開いてくださいました。それをわたし自身がメンバーとして実感してきたからこそ、今度は、ミュージカル女優かとう唯の未来を切り開く代表曲を作っていただきたくて、クラウドファンディングを通して制作環境を整え、お願いした経緯があります。
「ダジャロック!」のMVをご覧になっていただけたらわかるように、詰め込んだ69場面のだじゃれ映像が次々と流れます。あの内容を映像化するには、みなさんの力がないと難しいことから、クラウドファンディングという形を取らせていただきました。


かとう唯

――「だじゃれアンバサダー」の肩書を持つように、唯さんはだじゃれをご自身の魅力的なキャラクターの一つにしている方。いつ頃からなんですか、だじゃれ好きになったのは。

かとう唯:うちの父親が大のだじゃれ好きで、小さい頃から実家で聞かされていれば、今も、会うとよく聞かされます。だじゃれは意識するのでなく、当たり前に身近に感じていたこと。わたしも当たり前ように使っていました。ただし、家族の前以外だと、たまに友達の前で言うくらいで、けっしてだじゃれキャラを表に出していたわけではなかったんです。


――それが、何をきっかけに??

かとう唯:10年前にアイドル活動を始めたときからです。と言っても、意識して使っていたわけではなく、ブログの書き始めに、軽い言葉遊びの一環として「こんばんワニ」など書き出したことがきっかけでした。毎回だじゃれを書いていく中、次第に“だじゃれの人”というイメージがついてきたことから、積極的にダジャレント (だじゃれのタレント)な面も出すようになりました。
けっしてだじゃれキャラをアピールして自分を前に出そうとしていたわけではなく、まわりにだじゃれを言うアイドルさんがいなかったことや、「だじゃれを言う唯ちゃんのことも応援しているよ」という声が増えだしたから、「じゃあ、もっとだじゃれをアピールしていこう」となった形でした(笑)。だから、あくまでも自然な流れとしてだじゃれキャラが認知された形なんです。


――ファンの方々も、そこは好意的に受け止めていたわけだ。

かとう唯 そうだと信じています。ただし、平成琴姫時代のライブ中、わたしがだじゃれを言ったことで会場自体が凍りつく経験はたくさんしてきました(笑)。それこそ、話の落ちにだじゃれを使って場を盛り上げようとしたのに滑ってしまい、その滑った様を通して笑いが起き、結果的に盛り上がったこともありましたね(笑)。


――自分では、「ウケる」と思ってだじゃれを飛ばすわけですよね。

かとう唯 それよりも、「今、これを言ったらインパクトあるだろうなぁ」「これを言うと、ライブのシメに相応しいはず」という思考回路のもと、だじゃれを言ってました。それを繰り返していく中、たとえその場が凍っても、ファンのみなさんも、それを持ち味として捉えてくださっていましたね。たまにだじゃれを言わないライブをやると「今日はだじゃれ言わなかったね」と言われ、ファンの方も私のダジャレを期待してくださってました(笑)


――アイドル活動時代なら、それも納得です。ミュージカル女優として活動している今は、さすがにそこまでだじゃれを連発はしてないですよね。

かとう唯 いや、もう取り返しのつかない状態です(笑)。もちろん、本業は女優の顔ですけど。いろんな現場へ行くたびに「だじゃれのお姉さんですよね」と相変わらずだじゃれの顔も求められるように、今のわたしは、どっちも本気で魅力にしています。
SNSなどを通して先日まで主演していたミュージカル「サイト」を告知するときも、毎回、「見に来てくだサイト」と、だじゃれを入れて告知をしていました。わたしにとってだじゃれは日常になっています。


――さすが、「だじゃれアンバサダー」ですね。

かとう唯 毎日だじゃれを書いてたせいか、今や予測変換機能で、勝手に「しマウス」と出てくる状態。真面目な文章のやりとりのときには、いちいち「します」と直してます(笑)。でも、たまーに予測変換機能で認知されただじゃれのまま送ってしまい焦ることもあります(笑)。

かとう唯

――10年前にアイドル活動を始めて、芸能界入り。今は、ミュージカル女優として活動をしています。もともとミュージカル女優になりたい気持ちを持っていたのでしょうか?

かとう唯:というよりも、もともとわたしは舞台女優として地元の三重県で活動をしていました。だから、改めて、昔の道へ戻ったと言ったほうが正しいと思います。


かとう唯

――えっ、どういうことですか?

かとう唯:わたしは、9歳のときから19歳までの10年間、地元の三重県でも有名な劇団へ最初は子役として参加し、ずっと舞台女優を続けてきました。その劇団は、500-600人規模の会場で数日間の公演をやっても全日満員にしてしまうくらい人気も実力もある劇団でした。
その劇団で、ずっと続けていくこともできたと思うんですけど。わたしの中では、もっと幅広く、大勢の人たちに認知していただける活動をしたい気持ちが膨らんでいました。だから、進学校に通っていたにも関わらず大学受験をやめ、高校を卒業。一年間、地元でアルバイトをしながら上京のための資金を溜め続けてきました。それもあって、19歳で劇団を退団しました。


――自分なりの進むべき道筋は、しっかり見えていたわけだ。

かとう唯 そうですね。でも大好きな劇団だったから、退団するのは苦渋の決断でした。当時のわたしには、上京しないことには自分が求めている世界には入っていけないと思っていたし、だからこそ、その道を選びました。


――そこから上京し、アイドル活動を始めたわけだ。

かとう唯 いえ、実はそうでもなかったんです。地元に住みながら、いろんなオーディションに挑戦していました。当時のわたしは、月刊デビューというオーディション雑誌を定期購読していました。その雑誌の新しい号が届くたびに、気になるオーディション情報へ次々と付箋を張り、そのすべてに応募。当時は、アナウンサー・お笑い・歌手・タレント・女優・グラビアなどあらゆるジャンルに応募していました(笑)。


――そのチャレンジ精神もすごいですね。

かとう唯 箸にも棒にも引っかからず、すぐに落ちてばかりだったら、きっと早い時期に夢を追いかけるのはあきらめていたと思います。もしかして、一発で大きなチャンスをつかんでいたとしても、そのままずっと続けていたのかは正直わかりません。
わたしの場合、毎回、最終審査などチャンスをつかむ一歩手前まで進みながらも、選ばれることがない経験をずっと繰り返してきました。その悔しさがあったからこそ、どうしてもあきらめきれず、何度も挑戦を繰り返していたんだと思います。そんな中で最初に受かったのが、名古屋で活動するビアガーデンマイアミキャンペーンガールという活動でした。


――それが、アイドル活動のきっかけになったわけだ。

かとう唯 そうです。いろんなオーディションへ挑戦しながらも、ことごとく落ち続けた中、唯一つかんだのがアイドル活動への道。「ということは、その道がわたしには向いてるんだ」と思い始めたことから、「アイドルの道で頑張ろう」と気持ちを固め、活動を始めました。


かとう唯

――それが2011年のことでしたけど。翌年、2012年には平成琴姫として活動を始めましたよね。

かとう唯  2011年当時、平成琴姫を結成しようとしていたプロデューサーが、わたしたちの活動のことを聞きつけ、わざわざライブを観に来てくださったんです。その姿を見たうえで加入への誘いを受け、わたしたちは上京。翌年から平成琴姫として活動を始めました。


――平成琴姫は、和要素を打ち出したグループでしたよね。

かとう唯 そうです。和をコンセプトに据えたグループで、衣装も着物だったし、帯も、着付けを習い、作法に則って付けていました。しかも、小さな琴を身に付け、三つ指を付くパフォーマンスをしたり、SEにもお正月のときによく流れる「春の海」を使うなど、和の色を強く押し出していました。おかげで、海外からの支持も高まり、実際に海外公演を行ったこともありました。


――今ほどではないにせよ、その頃には「アイドル戦国時代」という言葉も生まれていたように、多くのアイドルグループが活動していました。その中から、平成琴姫が頭角を現してきた要因を、唯さんはどのように捉えています?

かとう唯 ライブは絶対に生歌で歌い、樫原さんが提供してくださった曲たちを筆頭に、楽曲のレベルも含め、アーティスト寄りの活動していたこと。そして、和という要素を崩すことなく打ち出していったことが、「本物」として認知を受け、支持を高め続けた要因だとわたしは捉えています。実際、オリコンのウィークリーランキングでも、上位に入る結果も残しました。
じつは平成琴姫を始めるとき、プロデューサーと「三年間は何があっても必死に頑張ろう。でも、三年経って結果が出なかったら、解散するね」という話もしていました。最初は4人で活動を始めた平成琴姫ですが、1人が卒業、途中からは3人で活動を続けました。わたし自身は、樫原さんの楽曲パワーなともあり、せっかく上向いてるからまだまだそのメンバーで続けたい気持ちでいました。でも、他の2人が卒業。一時期は、わたし一人で平成琴姫を続けながら、後に新メンバーを迎え入れ、活動を継続してきました。グループは、今も令和琴姫として活動しています。


――そんな唯さんも、活動4年半で卒業をしました。それには、どんな理由があったのでしょうか?

かとう唯 実はこの頃の話をするのは今でも少し辛いんですけど、続ける気になればもっと続けられました。でも、わたしが唯一の初期メンバーということで、どうしてもプロデューサーと新メンバーたちとの間に入っていろいろ調整しなければいけないことが多くなり、精神的な負担がどんどん増えだしました。わたしは、もっとアイドルとしての活動へ集中したかったけど、いろいろ負担に思ってしまうことが増えてゆく中、ついに心が壊れ、「もう卒業しよう」となってしまいました。
卒業も、何も宛もないのに決めたわけではなく、「わたしは歌うことが好きだし、小さい頃から大好きだったミュージカルをまたやりたいと思えたことがきっかけでした。その指針が自分の中にあったからこそ、新しい道を目指すためにアイドル卒業を決意しました。


かとう唯

――平成琴姫を卒業。新しい道を追いかけ始めた唯さんですが、すぐに仕事が決まったわけではなかったんですよね。

かとう唯 はい、まったく上手くいきませんでした。半年間はオーディションを受けても落ち続けるばかり。いくらミュージカルの経験がありますと言っても、幼少期や10代の学生時代の話。それでも、「けっして未経験ではないです」ということや、「アイドル時代に繋がったファンの方たちがきっと応援してくれます」とアピールしながらオーディションを受け続けました。その中でつかんだのが、ブロードウェイミュージカル「スペリング・ビー」のヒロイン役。このオーディションはけっこうな人数の方が受けていたからこそ、その中でチャンスをつかめたのもすごく嬉しかったんです。
あの時期は、アルバイトもしながらチャンスを手にしようとしていた時期。「スペリング・ビー」のヒロイン役の合格をつかんだ連絡も、アルバイト中に事務所の方から受けて知りました。あのときは、「絶対にあの舞台の合否の連絡だ」と感じ、お仕事を抜けだし、トイレで電話を受けたんですけど。事務所の方の声がとても弾んでいたのを聞いて「まさか」と思ったら、合格の知らせ。あの報告を聞いたあと、トイレで号泣したのも覚えています。


――そこから、ミュージカル女優という新たな一歩を踏みだしたわけだ。

かとう唯 そうなりました。何より励みになったのが、ファンのみなさんの想いでした。舞台の場合、ロビーにスタンドフラワーが並ぶんですけど、そのとき、平成琴姫の歴代や現役のメンバー名義のスタンドフラワーを10本くらい出してくださったんです。あれは、本当に嬉しかったです。そういうファンの方々の熱意が、間違いなくわたしの中の大きなターニングポイントになりました。


――そこから、新たな道が始まったわけだ。

かとう唯 そうですね。改めて、自分が進みたい道へ戻ったんだなと思えていましたし、やっぱり自分はミュージカル女優という道が好きなんだとも感じていました。


かとう唯

――公開になった「東京プリンセスストーリー」のMVにも、唯さんのミュージカル女優として生きてゆくうえでの意志や、ここへ至るまでの物語が濃密に描かれています。

かとう唯 「東京プリンセスストーリー」のMVには、オーディションに受かったはいいけど、つかんだのはヒロインではなかった。しかし、必死に練習を続けてゆく中、最後に抜擢されてヒロインの座をつかむ物語が描かれています。あの物語は、まさしく、わたしのありのままの気持ちを描いた内容。ファンの人たちはもちろん、夢を追いかけ頑張っている人たちに、あの映像を見ていただきたいです。そして、少しでも「自分も頑張ろう」と思ってもらえたなら嬉しいです。
「東京プリンセスストーリー」のMVでは、最後にチャンスを手にしますけど、そこへ至るまで人間性の部分をいろいろ映し出した内容にもなっています。わたし自身が素の人間性を見せていくことが好きだし、そういうやり方のほうが自分に合ってるなと思っています。その生き方は、けっしてお洒落ではないと思います。その上で「だ じゃれ」も言うみたいな(笑)。


――……。樫原さんに楽曲をお願いするときから、「東京プリンセスストーリー」のようなミュージカル調の楽曲にしようという構想はあったのでしょうか?

かとう唯 いえ、樫原さんに楽曲をお願いしたい気持ちだけが先行していて、まだ具体的な構想はありませんでした。なので、樫原さんとお話をしていく中で方向性を決めた形です。樫原さんに提案されたのが、「アイドル活動時代の延長にあるJ-POP曲の方向性で進みたいのか。それとも、ミュージカル調の楽曲を提示しながら、よりミュージカル女優らしさを示すのか」ということ。樫原さんもわたしも、後者の考え方でした。
普段、ミュージカル俳優さんがオリジナル曲を作るときって、舞台で見せる姿とは異なる、J-POP寄りの楽曲を作成される方が多いんですね。でもわたしは、ミュージカル女優らしさをさらにアピールしていけるミュージカルソングを歌いたかった。だから、樫原さんの言葉を聞いて、すぐに同調しました。


――「東京プリンセスストーリー」は、みずから作詞を担当しています。

かとう唯 わたしは、平成琴姫時代から、樫原さんの楽曲はどれも自分で作詞をさせてもらっていたので、今回も、そのつもりでいました。それに、自分のための楽曲だからこそ、自分の言葉で書いたほうが、その歌にリアリティも説得力も出るじゃないですか。実際に、自分のリアルな心模様が「東京プリンセスストーリー」にも描き出されました。でも、最初に書き上げた歌詞は、とんでもなく闇だらけでした(笑)。
というのも、先日に公演を終えたミュージカル「サイト」は、当初春先に上演するはずでした。私たちは2ヶ月に及ぶ稽古を行い、ついに本番を迎えるため「明日から小屋入り」と期待を膨らませていました。その直後に緊急事態宣言が発令され、全公演中止に…。かなり精神的にダメージの深い時期に作詞の工程が入ってきたことから、あの当時は、歌詞の中に「負けない、めげない」など、そんなことばかりを書いていました。あまりにも希望や救いがなかったから改めて書き直したんですけど(笑)。
同じくその時期、「ダジャロック!」のMV撮影も始まりました。あの作品を作りながら元気をもらったのは、もちろん。改めて、「わたしには、樫原さんに書いていただいた曲を形にする目標がある」ことを思い返し、それで気持ちを明るく、前向きに歌詞を書けました。


――「東京プリンセスストーリー」も、楽曲のみならずMVも作りたかったわけですよね。

かとう唯 そうですね。最初から、その意識はありました。そもそもクラウドファンディング自体が、「ミュージカル女優」「ダジャレント」というわたしの肩書となる面を、わかりやすく、視覚的にアピールしたいことから立ち上げた企画でした。
アイドル活動時代は、自分から発信しなくても次々と曲をいただければ、MVを撮ってもらえたり、新しい衣装だって作っていただけました。でも、アイドルをやめてからは、「これがやりたい」と自分から声を上げないとまわりは動いてくれません。そのためにも、自分をアピールするうえでわかりやすい肩書が必要と思ったのと、ちょうど活動10周年というタイミングが重なったことで、「自分の名刺を作るために」とクラウドファンディングを始めました。


――そういう背景があったんですね。せっかくの名刺となる作品です。より深く楽しんでもらうためにも、「東京プリンセスストーリー」の見どころも教えてください。

かとう唯 MVの中で私が1番印象的なのは、ジャージ姿で台本を読む姿や、部屋の中や外で踊りの練習をしている現実の自分とまんま重なるシーンでした。「東京プリンセスストーリー」のMVは、ドキュメンタリー風の物語にもなっています。普段は絶対に見せない姿も映し出したことで、ああいう過程を経て、夢を叶えてきたんだと感じてもらえる気がしていますし、その姿を見て「自分も頑張ろう」と思ってくれたら嬉しいです。
一番の見どころが、ミュージカル映画のような撮り方をしているところ。朝の身支度をしているときも、ヒロインに選ばれた人に嫉妬して遠目で見ているときも、あらゆる場面で、わたしは歌っています。他にも、みんながストップモーションになった中、わたし一人だけが動いてるシーンも見どころです。「東京プリンセスストーリー」には、ミュージカルでは当たり前に使っている手法をいろいろ取り入れているので、その映像演出にぜひ注目してください。


かとう唯

――現在、配信中の「東京プリンセスストーリー」の魅力もお願いします。

かとう唯 前奏からサビの盛り上がりにかけての展開が力強くドラマチック。そして何よりもメロディーラインが綺麗で、通常のJ-POPにはない構成やテンポチェンジが斬新だと思います。ミュージカルを知らない方でも、この曲をきっかけにミュージカルに興味を持ってもらえたらいいなと思っています。
歌詞の中では、冒頭の「思い通りにいかない東京 希望と挫折が混じって弾けた」の部分が、とても思い入れのある言葉です。わたし自身が、三重県から夢を追い求め上京してきました。同じような思いで上京してきた人たちは、本当に数多くいると思います。夢をつかむ中、思い通りにいかずに落ち込んでいる人もたくさんいると思います。中には、今のわたしを見て「順調に進んでるね」と言う方もいますけど。今でも思い通りにいかずに悩み葛藤する日々を送っています。それくらいこの一節は、わたしにはとてもリアルな言葉として響いてきます。
「東京プリンセスストーリー」は、最後には夢が叶ってゆく物語仕立ての楽曲です。だから、一番二番三番と描かれた心情も異なります。一番の歌詞には、わたしが10代の頃、ずっとオーディションへ挑戦していた時期と重なる心境を書きました。
こういった活動をしていると、応援してくださる人ばかりではなく、反対の意見を投げかける人たちもいます。「道の途中 聞こえてくる笑い声に 耳を塞いだ」の歌詞には、わたしの活動をバカにしてゆく人たちに立ち向かってきたし、今も立ち向かっている心情を記しました。そういう経験を踏まえたうえで、最後に夢をつかむ場面へ辿り着くからこそ、余計に感動が生まれるなと思います。


――確かに。

かとう唯 他にも、「描いた通りの花を咲かせましょう」と二番に書いたんですけど。その思いは、わたしが平成琴姫として活動していた頃から思っていたことです。漠然と思っていたり、何となくやってみたいだと、夢や願いって叶わないんですよね。明確なビジョンを持って本気で向かってこそ、その夢や思いは初めて叶う。わたしは今もそう信じています。二番には、比較的前向きな思いを記しています。「一筋の光でも 諦めないで」など、「もう無理だ」と思ったとしても、一個くらいは可能性を見つけ、その可能性に向かって頑張ろうよ。自分もそうやって頑張りたい。それを頑張ることで叶う夢もあるからと伝えたくて書きました。


――本当に奥深い想いを詰め込んでいるんですね。

かとう唯 そういう楽曲を、10周年という節目の時期に出せて良かったなと思っています。


――今回、クラウドファンディングに参加した人たちも、納得の内容ですね。

かとう唯 やはり、わたしがクラウドファンディングを行ったきっかけが、かとう唯の名刺となる作品を作り、それを手にアピールしてゆくため。だから、「東京プリンセスストーリー」の中へミュージカル女優としての姿を投影しました。
わたし、クラウドファンディングをオープンする前日まで、目標を達成できなかったら、どうしよう。もし失敗したら、それは自分に応援する価値がないと思われていること。そういう現実を知る前にやめたほうがいいかなと、自信喪失するくらい不安を覚えていました。そうしたら、開設した当日の配信時間中に目標を達成。それは初めてのケースと言われたことも嬉しかったし、自信にも繋がりました。それくらい、わたしのことを応援してくださる方々がいるからこそ、わたしはもっともっと頑張らなきゃなとも励まされました。
クラウドファンディングのファンディングを、わたしはファンの心を調達する…ファンの方たちを魅了するとも捉えています。「ファン」のみなさんが、今後のわたしの活動にも「クラ」いつきたくなるように頑張り続けたいなと思います。


・TEXT:長澤智典

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